菊野昌宏

1983年2月8日北海道深川市生まれ

2008年 ヒコ・みづのジュエリーカレッジ 卒業

2011年 A H C I 準会員  

2013年 AHCI正会員

Masahiro KIKUNO

KIKUNO was born on February 8, 1983.

2005-2008 - Hiko・Mizuno College WOSTEP course.

2011 - AHCI Candidate

2013 - AHCI Member

CUSTOMER REVIEWS

2020年にお客様にお渡しした時計のレビューをご紹介いたします。原文は英語ですが、文中にも登場するKIHさんに日本語に翻訳して頂きましたのでご紹介いたします。原文はこちらEnglish→https://monochrome-watches.com/collectors-series-customized-masahiro-kikuno-sakubou-watch/

収集家との会話シリーズ: @Watch_Time_It_Is氏と、菊野昌宏氏の「朔望」

 若手時計師 菊野氏の見事な手作業による装飾時計

 

「日本」という言葉と「腕時計」という言葉で連想するのは、おそらく、セイコーやグランドセイコーだろう。しかし、それは正しいながらも、やや短絡的だ。日本は、スイスやドイツと並んで、独立時計師の重要な宝庫なのだ。そして、日本の伝統への純粋な畏敬の念を持ち、彼ら独立時計師の「手造り」と「先祖伝来の手仕事による技術芸術」への献身ぶりはひたすらに驚異的である。それが、まさに、何度もこのシリーズに登場してくれている我らが@Watch_Time_It_Is氏が、才能溢れる若き時計師、菊野昌宏氏の「朔望」について説明してくれることなのだ。

 

 

菊野さんの時計を選んだのはどういういきさつで?

独立時計師の時計を集める1つの理由は、そこに現れる、芸術、職人技、技術、機械時計の粋を閉じ込めた時計を集めることが目的だからです。マスター独立時計師は数十年後には絶滅するのではないかという懸念を持っています。彼らのマーケットも独立時計師としての技術を教えるトレーニングもどんどん減っていると考えるからです。

 

400年かけて作り上げた機械式時計の文化、社会や人間生活への貢献を考えると、彼らはもっと尊敬され、大事にされるべきだと思います。ですので、私はいつも独立時計師の時計を探し、もっと世間の関心が彼らに向くように、と思っています。そうすれば、需要も増え、彼らに対する興味も広がり、彼らが培ってきた技術や魂が引き継がれると思うからです。

AHCIのメンバーリストや、FHHは、言ってみれば私の、「お買い物リスト」です。しかし、どのメンバーのモノでもいい、というわけではありません。

 

まずは、時計師は時計師であり、デザイナーやマーケターではないことが重要です。これは言うは易しですが、得てして陰にはデザイナーやパーツのサプライヤー、組み立て担当のチームなどがいるものですが、できるだけ自分ですべてやり、魂をその時計にそそぎこむ時計師を見つけるよう最善を尽くします。まずは、「手造り」がキーワードになります。

 

というわけで、私はある時計師と「次は誰の時計がいいか」について話をしていました。Masahiro Kikunoという名前が彼の口から出てきました。彼の名前はその前から知っていましたし、ウェブサイトも見たことがありました。朔望という時計は大変すばらしいと思いましたが、サイズが小さく、その時にはピンと来ていませんでした。

「でも、なんでもカスタマイズに対応してくれるから、何とかなるだろう」と教えてくれました。

さて、そうやって菊野さんにアプローチするに至ったわけです。

 

菊野さんは、伝統的職人型独立時計師というだけではなく、日本の時計師学校で教鞭も取っています。そして、AHCIのもっとも若いメンバーなのです。彼は、日本古来の時を表す方法である、不定時法を使って「和時計」を作りました。ほとんどを手で作り、6等分された昼(太陽が出ている時間)、6等分された夜(太陽が姿を消した時間)を、季節によってだんだん長さが変わってくる機構を作り出したのです。

 

私は世界中の独立時計師の時計を買い、彼らをサポートすることに力を注いでいました。そして、菊野氏に連絡して対話が始まり、彼の人と成り、そして時計についてなどについて話しました。これは、Ken Hokugoさん、長く良く知られたIDであるKIHさんと呼んだ方が、みなさんにはわかるかもしれません。彼は仕事のため長くNYに住んでいて、今はもうなくなってしまったPuristSPro.comというサイトで尊敬されるモデレーターをしていましたが、今は日本のウェブサイトである、Watch-Media-Online.comで、時計の情報についてはいつも後回しにされている日本のコレクターの為に、ボランティアで記事を書いています。Hokugoさんは、菊野さんのアトリエに2018年と2019年の秋に訪れた際に、完璧な通訳であり、私と菊野さんの間のコミュニケーションを間違いのないものにしてくれる存在でした。

 

 

菊野さんの時計のどこにあなたはそれほど惹きつけられたのですか?

私が時計師のアトリエを訪れる時、彼らが何者か、というところを少し垣間見ることが出来ます。彼らが見る世界は、しばしば彼らが作る時計に反映されます。菊野さんのアトリエを訪れた時はまさにその通りでした。

 

会った当初から、物静かで、物事や人に対して尊敬の念を欠かさず、そして常に「ようこそ!」という雰囲気を菊野さん並びに彼の時計たちから感じ取ることが出来ました。彼の時計は「レア」なだけではなく、聖なる鳥を愛でるように、あるいは皇帝の紋章のように誇りをもって身に着けるもの、と感じました。そして、それらはあなたが「買う」ものではないのです。それらは菊野さんからのもっと個人的な贈り物なのです(これについては後で詳しく述べます)。 

 

そして、多くの場所で「バランス/均衡」を感じることが出来ました。右と左、というようなバランスではなく、お互いを補完し合うという意味でのバランスです。例えば、昼間と夜、月と太陽。例えば、テンワは右に回転するのと同じ角度左に回転する、というようなことです。もし、バランスしていれば正確な時を刻むでしょう。もし、バランスがなければ作品は混乱の極みです。菊野さんの時計は、新しいモノと古いモノ、機械的なものと精神的なもの、個人的なものと世界的なもののバランスを反映して、正確な時を刻んでいるのです。

例えば、この「朔望」ですが、「朔」は新月を意味し、「望」は満月を意味します。ですので、この時計の名前「朔望」は、新月と満月、という意味なのです。菊野さんは、オーナーに、今日(こんにち)の月を昔の人が抱いていたのと同様の憧れをもって眺めて欲しいのです。日本の伝統と文化を振り返り、菊野さんはこのように言っています:

 

日本人にとって、月は闇夜を照らす自然の道具であり、潮の満ち引きを知らせる暦であり、そして空に浮かび憧れをもって眺める芸術作品だったのです。今では、人工的な光が多すぎて、本当の闇を見ることはなくなりました。ですから、我々は月を、昔の人と同じような憧れを持って見ることが無くなったのです。「朔望」は、あなたの腕に乗った月を、もう一度憧れをもって見て欲しい、という願いから生まれました。

 

彼は時計自身もオーナーと共に年を取る素材を選びました。時計のケースは、「黒四分一」という素材でできています。黒四分一は、87.3%銅、9.9%銀、2.8%金、という合金です。銅が経年で変化するので、結果は:

 

「朔望」はそれ自身の変化も時を経て経験できる時計です。「朔望」は時を知らせますが、同時にあなたと共に年を取るのです。これは、今のメインの考え方である「箱に入ったままの新品」が最高のコンディションであり、一度開けて、腕に着けてしまえば、劣化が始まるというものと、まったく違う考え方です。「朔望」は、芸術と美の「経年」過程を感じさせてくれます。その「経年」とは、劣化ではなく、時と共に変化する、というだけのことなのです。我々人間のように。

これだけで、私をひきつける十分な魅力だが、実はまだあります。

 

最初にアトリエを訪れて菊野さんの哲学や彼が時、時計、機械的芸術、歴史などにひきつけられる理由を聞きました。また、私の方からは、自分の考え方や、自分にとって特別に意味があること、などを話しました。1つは、ある数字の特別な意味、それが私の人生にとっていかに重要か、です。「朔望」は、限定生産であることを知っていましたから、私の好きな番号が残っているか尋ねました。菊野さんの奥様(マネージャー兼務)はオーダーブックを見て、驚いたように、「あら、1つたまたま最近キャンセルがあったので、次の番号はあなたが希望されている番号になります」。

 

私はその場で注文を決めました。

 

 

では、その時計についてもう少し教えてください。

まず、手造りで作ってもらうので、時計のサイズを好みのサイズに替えてもらうことが出来ました。ケース、文字盤、そしてムーブメントのサイズさえもカスタマイズしてくれるブランドや時計師がどれくらいいますか? これほどのカスタマイズが可能、という点がスタートでした。西洋人の私の大きな手首にとって、これは非常に重要なスタートラインでした。

 

 

 

左がケース径38㎜用、右がケース径42㎜用のムーブメント

 

時計の核となる部分は、菊野さんの「朔望」  ケース、ムーブメント、ムーンフェーズ、そして使う素材です。その多くは、菊野さんが伝えたいこと、そしてそれを伝えたい方法で伝える、為の「道具」です。我々の会話の中で、菊野さんが思い付き、デザインし、私のための要素も取り入れられています。

 

例えば、新月と満月について話したとき、私は自分の「非永久性」と「新しい始まり」について話しました。これは、生と死、というだけのことではなく、物事や人は去っていくが、人はそれでも次の一歩を踏み出さねばならない、という意味です。

 

ローマの神である「ヤヌス(年老いた顔は過去を見ており、若い顔は未来を見ている)」は、時の神であるだけでなく、物事の始まりと終わり、二重性と推移、の神でもあります。年の始まりである1月、Januaryとは、彼の名前から来たものです。

しかし、日本の時計のローマの神はやや場違いですね。 

 

 

 

そこで、菊野さんは、日本における重要な象徴である「蛇」をつかうことをおもいつきました。 蛇は、脱皮をし、その様は一旦終わりを示し、また新しい始まりを示します。しかし、彼はそこでとどまらず、さらに日本風の「しめ縄」をその「蛇」のシンボルとして使うことを思いつきます。しめ縄は、日本伝統の宗教である神道において、聖なるものと不浄なものの境目を示す「縄」です。稲の藁で作られ、太さは一定ではなく、長さも数メートルに及びます。その表面と、ねじられた様は、まさに蛇に似せてつくられていると考えられます。

しめ縄の彫金は金川恵治氏の手によるもの

 

さらに、「しめ縄」で囲まれた部分は、聖なる場所(神社のように)と考えられます。ですので、月をその「しめ縄」で囲っているこのデザインは、目立つだけでなく、月の重要性を示し、日本文化におけるユニークな月の重要な役目を示しているのです。

 

発表された当時の「朔望」のデザインは、文字盤にツタのパターンが彫られたものでした。それは美しいモノでしたが、私にとって視認性にはやや難があり、針と文字盤とのコントラストがより大きくなるデザインを求めました。金の針とベゼル、そして「しめ縄」もその一部でしたが、私は文字盤をもうちょっと暗くしてほしかったのです。

 

菊野さんは、またもやとても日本的なアイデアを出してきました。彼は、黒い文字盤に「魚子(ななこ)文様」を提案してきたのです。「魚子文様」とは、刀の鍔などによく使われる、小さな同じ大きさの半球体を縦横正確に並べるものです。それをすべて手でやらなければならなくなった菊野さんにとっては、とても時間がかかるものだったと思いますが、これで針、月、しめ縄の背景となる文字盤が引き締まりました。

 

魚子文字盤

 

「魚子文様」には、本当はより深い個人的な意味があるですが、皆さんにお教えするわけにはいきません。これは菊野さんと私だけの秘密です。しかし、お伝えしたいのは、それもまた、精神的、個人的、そしてマジックのようなこの時計、そしてなぜ菊野さんだけがこのような時計をデザインし、作ることが出来たのか、という理由の一面だ、ということです。

 

多くの面で、私はこの時計を「我々二人の時計」と考えます。私だけのものでもないし、菊野さんだけによるものでもありません。私たち二人が出会わなければこの時計はできなかったですし、それをまた「バランス」と呼んでも構わないと思います。

 

このことは、時計と共に送られてきた菊野さんのジャーナルというかフォトブックも大きな存在です。このジャーナルは、この私の時計を作るプロセスを写真と共に語ってくれ、菊野さんが、各種昔ながらの機械を使って切削、磨き、やすりがけ、のこぎりによる作業、ねじ・ピニオン・ギア・針・ケース・ばね・インデックスその他多くの部品を作るシーンが記録されています。

また、「魚子文様」が作られる様(菊野さんにとっては、初めてのテクニックとなりました)と、「七宝つなぎ」とペルラージュ模様が作られる様、角を丸め磨く様、地板のタッピングとルビーの押し込み、文字盤を深い黒にするための化学処理の様子まで見せてくれました。 

 

このジャーナルの存在によって、私は日本文化において「蛇」の持つシンボリックな意味、そして、私自身の、また日本的な理由による、6時のインデックスがないこと、を思い出すことができました。

 

このジャーナルは、手造りの本当の意味、並びに証拠であり、菊野さんが私の時計に一人で対峙した時間を見せてくれ、私に彼の偉業を心底重んじ、時計を作るプロセスというものは出来上がったデザインと同様に、作り手と買い手の共通の経験である、ということを教えてくれたのです。

 

 

菊野さんの時計で、他に気になる、将来欲しいと思っている時計はありますか?

はい。もちろんです。でも、どれか、は言えません。

秘密、ということではありません。ただ私はそれがどういう時計になるかまだわからないのです。この「朔望」を作り上げるプロセスを経験した今、私はまたその経験がしたい、と思っています。 

 

ひょっとしたら、トゥールビヨン(しばらく、彼が学生時代に作ったトゥールビヨン時計を検討していた時期もありました)かもしれませんし、あるいは、彼がいま考えている時計、あるいは図面を引き始めた時計かもしれません。私は、菊野さんの時計作りの野心、情熱をサポートしたいと思いますし、「朔望」が私に与えてくれた興奮をまた感じたいのです。菊野さんとまた一緒にその「旅」をしたいと思うのです。

 

菊野さんの時計を次に、と考えている人に何かアドバイスは?

上記のジャーナルはこんな言葉で始まります:

“私の目的は時計を作ることではなく、時計を作ることにより人々を幸せにすることです。あなたが今受け取った時計からの歓びを感じるだけでなく、私があなたの為に時計を作るのに感じた悦びも感じてほしいと思います。”

 

この言葉の意味は、彼との打ち合わせの中では、はっきりとはわかりませんでしたが、今ははっきりとわかります。彼を良く知ること。そして自分自身のこともよく知ることがまずは必要です。あなたは、彼の時計を買うのではありません。あなたは、あなたと菊野さんとの合作ともいえる時計が作られるその「旅路」を共有するのです。

 

私にとって彼は、私の考えをよく理解した上で「翻訳」して、日本文化と融合させ、誇り、想像力、尊敬、そして日本の伝統的芸術家としての魂を持って時計を作ってくれました。彼は若く(もっとも、私にとってはほとんどの人は私より若いが)、これから何年もの間、技術や創造性をさらに磨くだろうと思っています。

 

時計が出来上がるまでの静けさを楽しみ、時計が作られそして完成するまでの道のりをゆっくりと歩くことを幸せと感じること(時計ができた今だから簡単に言えることではありますが、時計が完成まで歩んできた道を私は毎日想像していました)も必要です。

 

これは、技術革新や複雑時計の複雑さのための旅ではありませんでした。もっと個人的で、表現のための旅であり、時計が過ごした彼の自宅・アトリエでの日々から秘密と興奮がいっぱい詰まった時計として完成するまでの道のりなのです。

 

我々はしばしば、時計師とのコミュニケーションに苦労することがあります。しかし、菊野さんの場合はそんなことはありませんでした。ほとんどの場合、菊野さんは自分で丁寧な返事を英語でいつもすぐに返してくれます。そして、その内容が非常に複雑になってくれば、Hokugoさんが常に助けてくれ、「言葉の壁」によって意思が伝わらなかった、ということはありませんでした。最後になりますが、読者の皆さんにも、菊野さんや、他の独立時計師をサポートしてほしいと思います。